大津宮あたりを歩く その1

3月全く更新なしというのは宜しからぬと、午前中の時間で大津の行ったことがない場所へ行ってみることにしました。

街道歩きもいいのですが、街道をひたすら辿ることが主目的となり、なかなか逸れた場所にある名所はスルーしてしまいがちになります。

今回は以前から気になっていた大津市の西部、近江神宮あたりへ行ってきました。

平日の午前9時前、京阪の近江神宮前駅に降り立ちます。3月も終わりですが曇り空で肌寒い日です。
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駅を出てすぐの交差点を北の方に進むと、住宅街の中に空き地というか公園があります。
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このあたりが天智天皇が遷都した大津宮があったとされている場所です。現在はほとんどが住宅が建っていますが、昭和49年の発掘調査で、大型の柱穴が発見され、ここが大津宮だということになりました。

大津宮というのは、白村江の戦い(663年)のあと、天智天皇が飛鳥から突然この地に都を移しました。ただ、その5年後に天智天皇が亡くなり、その後壬申の乱で天智天皇の皇子である大友皇子が敗れると、大津宮は廃止となりました。
5年数ヶ月という短い期間の都でした。

歩くと他にも同じような公園があります。
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歴史にタラレバはないですが、もし壬申の乱で大友皇子が勝利していたら、平城京や平安京のようにもっと都として確立されていたのでしょうか....そして滋賀が京都のようになっていた?
しかし琵琶湖と山との間の斜面であり、他の都のように平面的な広がりは期待できません。そもそも何故この地が選ばれたのでしょうね。

んなことを考えながら北へ歩いていくと近江神宮に突き当たります。
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今回の第一の目的地は宇佐山なので、左の宇佐八幡宮の方へ曲がります。川沿いに山の方へ向かっていきます。
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地図だと宇佐八幡宮のあたりから登るようなので、まずそこを目指します。分かれ道になったので看板どおり右の方へ。
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間もなく参道ですが、この坂が急なこと。馬力のない車では登れないのでは、と思うほどです。
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急なこと急なこと。ふくらはぎが吊りそうです。
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途中に「霊泉 金殿井」という門があったので、入ってみます。
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小さな小屋にはいると、奥に水が湧いているようです。
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中を覗いてみます。よく底が見えません。少々不気味です。
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天智天皇がご病気の際、この水を差し上げたら治られたという、霊験あらたかな水です。不気味などと言ったらバチがあたります。

木戸を開けて覗き込みますが、すみません、やはり不気味です。
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しかしそんなありがたい水をいただかないわけにはいけません。備え付けてあった杓子で汲んでみます。
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あ、きれい。

一口だけありがたく飲ませていただきました。身も心も浄化されるといいのですが。

ここから間もなく宇佐八幡宮です。
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1065年、源頼義が勧請し創建されたとのことです。頼義と言えば八幡太郎義家の父。前九年の役などで奥州を攻めた人物ですね。
子供の守り神だそうですので、自分の子、他人の子ふくめてお守りくださいとお参りしました。
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さて先ほどの階段を登る手前右側に登り坂があり、その途中に宇佐山への登り口があります。
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宇佐山城址とあります。
そう、もともとこのブログは歴史散歩がコンセプトなので、ただの山登りではいけません。城跡があるから登ろうというのです。

しかし思ってたより結構きつかった...  続きは次回で。

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大津宮あたりを歩く その2 宇佐山

さて、その1の続きです。

宇佐八幡宮へ車道を登っただけでも結構疲れてきたのですが、これから山道。宇佐山の山頂を目指します。

可愛らしい案内板が。近所の志賀小学校の生徒さんが建ててくれてるようです。
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しかし中々の山道です。案内板がなければ迷いそう。
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可愛い案内板。励みになります。
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しかし.....暑い。

肌寒い朝だったので、薄手のダウンジャケットを羽織ってるのですが、登りが続くと汗が噴き出てきます。
気温は低いとは思うのですが。

結構きつい...
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ダウンジャケットを脱いで手に持ち歩きます。

そんなときまた励ましの言葉が。
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はい、おっちゃん頑張ります!

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はい、もう少しなんやね!

なんか案内板の写真ばかりになってきました。
しかしとにかくたくさんの案内板を建ててくれています。

志賀小学校の生徒さんや先生に「アッパレ!」


そしてようやく頂上の電波塔が見えてきました。
しかし時計を見ると、山道に入ってから、15分も経ってないんですよね。
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この電波塔の建っている頂上に宇佐山城があったようです。
まわりを取り囲むように石積みが一部残っています。
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お地蔵さん
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さて、宇佐山城とはどんな城なのか。

1570年に織田信長が、重臣であった森可成につくらせた城です。
浅井・朝倉連合軍と、それに呼応した近江の土豪や比叡山の僧兵などへの押さえとしてつくられました。
ちょうど北陸から湖西を通って京に至る北国街道(西近江路)を見下ろす位置にあります。

姉川の戦いの後、信長を追って京を目指す浅井・朝倉の連合軍をくい止めるため、森可成はこの城から出て奮戦しますが、坂本の地で最期を遂げます。
森可成亡き後、連合軍が続けてこの城を攻めますが、家臣の奮戦によりくい止められます。

これらの戦いのおかげで、京の信長が勢いを取り戻すことができたという、歴史的にも重要な城であり、戦なのです。

信長は森可成の死をとても悲しんだようで、連合軍に手を貸した比叡山延暦寺を憎んで焼き討ちをしたという話もあります。また、その焼き討ちはこの宇佐山城を拠点にして行ったと伝えられています。

ちなみに森蘭丸は森可成の子です。


頂上の電波塔のところへ上がります。
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木が邪魔してあまり景色が見えません。
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おーーーい! みえへんぞー

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この場所に400年以上前、信長がいたのだよなぁ、何を考えていたのだろうなぁ、こんな未来になってるなんて知ったらどう思うだろうなぁ、なんてしばし座ってぼーっとします。
(とりあえずぼーーっとするのが私の基本です)

汗に濡れた服が休んでいるうちに寒くなってきたので、現実に戻って下山することにします。

大きな岩、あれも遺構かしら。
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重力に逆らわない仕事は楽です。ということでたちまち下山。車道に戻ると登る途中は通り越した岩が。
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岩に窪みがありますが、これがご神示の跡で、御足形と呼ばれているそうです。(看板のとおり)
小さめの足です。

そして麓まで下りてきました。このあたりからは琵琶湖がよく見えます。(この日は曇りで写真ではよくわかりませんが)
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山登りだけでだいぶスペースを費やしてしまったので、今回はここまで。
まだ電車を降りてから1時間ちょっとです。少し歩いただけで全然違う世界に行けるもんなんですよね。

(つづく)

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大津宮あたりを歩く その3 百穴古墳

その2の続きです。

宇佐山を下りると、そこは近江神宮です。
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近江神宮の創建は紀元2600年(昭和15年)ですので新しい神社です。この紀元(皇紀)2600年の際は様々な記念行事が行われています。
天智天皇のときに漏刻という、水を使った時計の原点のようなものが使われたため、時計館宝物館という展示館が境内に建っています。

「滋賀県の歴史散歩」によると、時計以外にも崇福寺跡出土の舎利容器(国宝)や南志賀町廃寺跡発見の軒瓦、などが展示されていると書いてあったので、300円払って期待して入ったのですが、古い時計とかるたくらいしかなく、残念でした。平成22年度にリニューアルして時計館宝物館となったときに、違う場所にいったのでしょうか。
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砂利がキレイに均されていて、歩くのが憚られます。

ちなみに近江神宮は毎年1月に百人一首の名人戦、クイーン戦が行われることでも有名です。そのことから最近漫画の「ちはやふる」のファンが訪れることも多いようです。(うちの娘も文庫本持ってます)

古い物好きの私にはあまり見るところがない近江神宮をあとにし、北へ向かいます。
その2で登った宇佐山が見えます。電波塔が小さく見えると思いますが、つい1時間前にはあそこでぼーーっとしていました。
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住宅街の中を歩くと、提灯が吊された公園が見えてきます。
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中へ入ると礎石のようなものがあったり。
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ここは南滋賀町廃寺跡。塔、金堂、僧坊の跡が発掘調査により確認されており、瓦や土器の出土品から、白鳳時代から平安時代まで大きな寺院があったと考えられています。

花が咲いたらお花見か。
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どんどん北へ進み、京阪南滋賀駅付近まで来ると、山の方へ向かう細い道があります。この道が旧の山中越え。
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この道を山の方へ進むと、民家の途切れたあたりの右手に百穴古墳という古墳群があります。
道から逸れて入っていきます。
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丘陵地の林の中に石がゴロゴロ転がっているように見えますが...
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このような石で造られた洞穴状のものが。
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ドキドキしながら中を覗いてみます。
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当然ながら何もありません。

見渡すと同じような穴がここにも。
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また覗いてみます。
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この、百穴古墳というのは、約1400年前(古墳時代後期)に造られた古墳が多く集まっているところです。ドーム型の石室内には棺が収められ、2~3人の方が葬られていたとのことです。

あそこにも
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こっちにも
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油断すると足元にもあって、はまってしまいそうです。
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崩落危険なのか、近くに寄れないものも
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古いとは言え、お墓なのですから、あまりはしゃいでは不謹慎なのですが、これだけたくさん集まっていると興奮してしまいます。
埋葬された人によっては金銀の装飾品を着けていたりしたようです。

このあたり一帯は渡来人が多く移り住んだところなので、そんな人々が葬られたのでしょう。
百穴といいますが実際確認されているのは看板を見ると40基程度でしょうか。丘陵の上の方まで点在し、全てを見るのは大変です。

旧の山中越えに戻って、京の方へ向かいます。この先の山中に崇福寺跡があるので、そこへ行ってみようと思います。

古墳の写真をたくさん載せすぎて量が多くなってしまいました。

というわけで今回はこのへんで。(つづく)

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大津宮あたりを歩く その4 崇福寺跡

その3の続きです。

初めて訪れてなかなか興味深いものがあった百穴古墳をあとにし、旧の山中越えを川沿いにさらに進みます。
ちょっと車で進んでいくのは勇気が要るような道です。
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今このあたり


道沿いには小さな石仏が
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さらに進むと小さな建物が
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そこには大きな石仏があります。
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解説を読むと、高さ3.5m、幅2.7mの花崗岩に厚肉型に彫られた阿弥陀如来像で、13世紀頃に彫られたものだということです。
厚肉型とありますが、近くで見ると、もう石からほとんど如来様が出てきそうなほど、深くというか突き出たように彫られているのでびっくりします。
京都側(北白川)と途中にも石仏があり、旅人が安全を祈願したと言われているそうです。
とても可愛らしいというか、穏やかな顔をしています。

なおも舗装はしてありますが狭い山道を進みます。
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もし車なら、対向車が来たらどうしよう、というような道です。

しばらく進むと右へ行けば崇福寺跡という看板があるので、この山中越えの道から離れてそちらへ進みます。

少し行くとその辺り一帯が崇福寺跡になります。
典型的な山岳寺院で、尾根ごとに伽藍が建っていたそうです。まず金堂・講堂跡という案内に従って進むことにします。
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また山道を登ります。

道はよく整備されています。尾根へ向けて階段を登ります。
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登り切ると開けた所に出ます。ここが崇福寺の金堂跡になります。
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崇福寺跡の碑が建っているあたりに金堂が建っていました。
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礎石?でべそのような。
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講堂もこのあたりに建っていたようです。
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解説の看板によると、
崇福寺は、天智天皇が大津に遷都した翌年の668年、天皇の勅願により建立された寺です。
壬申の乱後、大津が廃都になった後も繁栄を続け、平安時代には十大寺に数えられたほどでした。
平安末期に山門(延暦寺)と寺門(園城寺)の争いに巻き込まれ、衰退の一途を辿り、鎌倉時代後半にはついに廃絶となったとのこと。

600年以上も続いたお寺がここにあったんですね...

元の階段の道を下りて、そこからまた谷の方へ一旦下りて北側の尾根を目指します。
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谷を渡ってまたしばらく登ると、また少し開けたところに出ます。
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ここに小金堂と三重の塔があったとのことです。

こっちが塔のほうやったかな?
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ここに塔や伽藍があれば琵琶湖からも眺めることができたでしょう。

現存する寺社仏閣もよいのですが、このようにあまり人も訪れない、もう何百年も前にその役割を終え、今はただ痕跡が残るばかり...そういう場所に私は惹かれます。
かつては多くの僧が修行し、読経の声が聞こえていたことでしょう。

さて、もう一箇所弥勒堂跡という遺構が別の場所にあるのですが、少し雨が落ちてきたため、今回はこれで引き上げることにします。

休日ならもう少し人も訪れるのかも知れませんが、今日は百穴古墳といい、崇福寺跡といい、全く誰にも出会いませんでした。

石仏まで下りてきました。平べったい岩が見えますが、石仏の裏側です。
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百穴古墳も越えて人家のあるところまで下りてきました。琵琶湖や対岸の三上山も見えます。
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湖西道路(R161)を越えてなお下っていきます。先ほどの崇福寺跡から15分足らずで車の多く行き交う現代に逆戻りです。

そして南滋賀駅に到着。ホームでのんびり電車を待ちます。ちょうど12時前、お昼はどこで食べようか。
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今日は午前中の3時間で、様々な歴史に触れることができました。
この、湖西地方というのは琵琶湖と山の間が狭いため、街中からすぐに山の中に入っていけます。そのため旧蹟を訪ねるぶらぶら歩きも変化に富んで、とても楽しいところです。

日当たりのよい斜面で眼下に琵琶湖を見下ろす。昔の人がここで文化を育んだのがわかるような気もします。


(おわり)

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堅田探訪 その1

2014年最初の記事となりますが、10月末に堅田をぶらついたことを書こうと思います。

堅田は琵琶湖の一番狭い部分にかかる琵琶湖大橋の西側の街になります。大津市北部の地域です。

歴史のある街で、中世には琵琶湖の水運を支配していた堅田衆の本拠地として栄えました。今でもいろんな史跡が残されています。

訪れた日:平成25年10月27日

この日は午前中仕事があって、その帰りにどっか寄っていこうと、国道は毎日通っているものの街中を歩いたことがなかった堅田のまちあるきをすることにしました。車で国道161号の仰木口の信号を琵琶湖の方へ曲がります。


東洋紡の工場横を進むとすぐに広い観光駐車場が左手に現れます。無料ですが綺麗なトイレも整備されています。ここに駐めて歩くことにします。

少し琵琶湖に向かって歩くと、「湖族の郷資料館」という建物があります。この資料館の存在は知っていたのですが来るのは初めてなので入ってみることに。
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中に入ると、ボランティアガイドの方でしょうか、お年寄りの男性がおられます。パンフやペーパーが並んでいるのを見ていると、どうぞ持って行ってください、と仰います。
入館料が100円と書いてあったので、「中を見せてください」と百円を出すと、
「見られますか、どうぞどうぞ」と百円と引き替えに券を下さいました。ひょっとするとお金を出して入る人が珍しいのかも知れません。

土間で靴を脱いで上がります。1階にはパネルやらいろいろありますが2階にも何かありそうなので、階段を昇ります。
2階は古い道具などが置いてありました。
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道具などを見ていると階段をさっきのおじいさんがゆっくり昇ってこられます。大丈夫かいな、と心配しましたが無事に上がってこられました。
聞くとこの建物は商売をしていた家を改造して資料館にしたらしいです。

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文豪たちの肖像が描かれたパネルが並んでいます。
ゆかりがある、というか、作品の中に堅田の出てくる場面がある、ということらしいですが、そうそうたる顔ぶれです。
また読んでみようかしら、という気になります。三島由紀夫の「絹と明察」という作品にも出てくるらしい。

堅田の落雁というのは、近江八景の一つですが、その絵が飾られています。その前にはお菓子の落雁の型が。落雁というお菓子は知っていましたが堅田が発祥?
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説明を受けなかったのですが、御輿の飾りかな?
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丸子船の模型が。
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階下に降ります。志賀廼家淡海(しがのやたんかい)、明治から昭和にかけて、喜劇の第一人者だった人だそうですが、(すみません、あまり存じませんでした)堅田の生まれだそうです。
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今度は奥野椰子夫。琵琶湖哀歌という歌の作詞者です。(琵琶湖周航の歌とは違います)
昭和16年に旧制四高(現金沢大学)のボート部員11名が、練習中に琵琶湖で遭難して亡くなりますが、それを悼んで作られた歌です。琵琶湖は穏やかに見えますが、時に牙を剥くときもあるのです。
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鴨居の上にはまたまた堅田ゆかりの人々のパネルが。
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匂当内侍は新田義貞の妻で、預けられたこの堅田で義貞の死を知って湖に身を投げたとのこと。

一休さんも青年期を堅田のお寺で過ごしたらしい。
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あとまた堅田の説明が。
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中ではほとんど付きっきりで(客は私だけだったのですが)おじいさんがいろいろ説明してくださいました。ありがとうございました。

外へ出て湖岸方面へ再度歩き出します。
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ほどなく門が見えてきます。これが満月寺、通称浮御堂です。
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何百円やったかな?拝観料を払って中に入ります。

境内に入ると観音堂があります。聖観音座像は国の重要文化財だそうです。
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そして湖中に突き出て建つお堂が。これが浮御堂です。
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西暦995年ごろ、比叡山の恵心僧都(源信)が建立したそうです。自ら千体の阿弥陀仏を刻んで千仏閣と称したとのこと。荒廃を繰り返しましたが、江戸時代に再興されました。それも台風で流されて、現在のお堂は昭和12年に再建されたものです。
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お堂へ橋を渡っていきます。
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現在も阿弥陀仏千体が安置されているそうです。もちろん源信の時代のものではありません。

周りをぐるっと一周できるので琵琶湖側へ。北方を眺めます。琵琶湖大橋が見えます。
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こっちは南側。
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しばし湖を見ながらぼーっとしてました。

観光客らしき団体も結構来られるようで、関西弁丸出しのオバちゃま方の団体が、始終ぺちゃくちゃ喋りながら来て去っていきました。
「浮御堂ていうさかい、ぷかぷか浮いてると思たら、違うやんかいな」
「あんた、浮いてるわけないがな、浮いてたら流れていってしまうがな」
「そらそやわな、ケラケラケラケラ」

まあ、おばちゃまは元気です。

(つづく)

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プロフィール

とうたん

Author:とうたん
滋賀県在住のオジサンです。
滋賀のこと、歴史、旅、が大好き。また最近はももクロに絶賛はまり中。
あ、もちろん家族も大事です。

歩いて、バイクで、車で、滋賀のいいとこなどなどを紹介していきます。

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